鎌倉時代に成立した『平家物語』には、平家と興福寺が敵対し合戦の末に奈良が焼け野原となるくだりが描かれています。天平以来の伽藍を誇る興福寺が炎上する前で、運慶や貞慶が見たものはどのようなものだったのでしょうか。
【原本:『平家物語上』新日本古典文学大系45、岩波書店、1991】
【奈良炎上までのあらすじ】
1180(治承4)年。平治の乱以降、源氏でありながら清盛のもとで生き延びてきた源頼政はついに平家に対する挙兵を企てた。後白河法皇の第三王子・以仁王(もちひとおう)を擁立し平家討伐の令旨を得て挙兵すると、京の都で平家に勝るとも劣らない力を持つ三井寺に王を預け、さらに南都興福寺の支援を求めようとする。しかし清盛の四男・知盛に追いつめられ自害。以仁王は密かに興福寺へ向かうさなかに平家の追っ手に討たれ、三井寺もまた五男・重衡によって焼かれたのであった。
そして残る反平家勢力は、源氏と南都(興福寺・東大寺)となった。
第五段 平家滅亡の予感
炎のなかで焼死した人の数。大仏殿2階で約1700人、興福寺で約800人、あるお堂で約300人。ひとりひとり詳しく調べた記録で約3500人。戦闘で殺された僧は約1000人。そのうち何人かは般若寺の門の前に首をさらされ、また何人かの首は都へ持って行かれた。
翌29日、奈良を滅ぼした大将重衡は京都に帰った。その報告を聞いて喜んだのは清盛ただひとり。建礼門院、後白河法皇、高倉上皇、摂政藤原基通以下の人々はみな、
「荒々しい坊主を討つのはわかるが、寺まで破壊するなんて。」
といって嘆いたという。
京へ持ち帰られた僧の首は、都大路で引き回したうえ獄門にさらすべきだとも言われていた。しかし東大寺、興福寺のあまりの壊滅ぶりに、結局は何の指図もなく、あちこちの溝や堀に捨て置かれたままとなった。
聖武天皇直筆の詔書には、東大寺について次のように記されている。
「わが寺が興福すれば、天下も興福し、わが寺が衰微すれば、天下も衰微するであろう」
もし本当にそうならば、この世が衰微するのはそれほど先のことではないように思われる。荒れ果てた年も暮れ、治承は5年となった。
この2ヶ月後、平清盛は謎の病でもだえ死ぬこととなる。誰もが仏罰だと噂したという。
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